よくよく考えれば、成長を求めて自ら「不幸」になってるけれど、それでも良いとも思える
自分含めて、特に勉強会に行きまくってるエンジニアとかに多いんと思うんですが、みんな成長に貪欲ですよね。
成長に対して貪欲であることってすごく良いことだと思いますし、自分もそうでありたいとずっと思ってます。
ただ、これって見る人によっては実は自ら不幸な道を選んでるように見えるんじゃないかなって思うことがあります。
成長したいと思ってる人ほど、謎の危機感に襲われている
必死に勉強して成長したいと思い、行動にまで落とし込めてる人ほど謎の危機感に襲われています。
自分もそうなのですが、たとえば、もし土日なにもしなかったりしたら、とてつもなく罪悪感を感じて憂鬱になります。
中には将来生きていけるか不安とまで思ってる人もいるでしょうし、そこまではいかなくとも成長が止まってしまうこと、周りのみんなに置いていかれてしまうことに漠然とした不安を感じてる人もいると思います。
もちろん、成長していることを実感してそれを楽しんでる一面もあるのでしょうが、それだけではないという人がほとんどです。
不安の出処は人によるのかもしれませんが、自分の場合は理想の自分との乖離が原因です。
本来だとあと数年後にはこうなってる予定なのに、それに比べて今の自分はどうだ?大丈夫か?という不安です。
この常にえもいわれぬ不安に襲われながら必死に成長していく様って、やっぱりただの不幸そのものでは?
ちょっと考えを変えることができれば幸せになれる
世の中仕事だけじゃないですよね。
たとえばプライベートにもっと目を向けるだけで、幸せっていっぱいころがってるなって思うんです。
ご飯がおいしいとか、好きな人と一緒に居れるとか、生きていけていられることとか。
それだけでも十分に幸せなことだと思うんです。
現に、その幸せを噛み締めて生きていけている人も多数いると思います。
成長意欲の高さは強欲から来る
じゃぁなぜ僕らは些細な幸せに目を向けないのか?
目は向けていますし、感じてもいるんだけど、ただそれだけじゃ「満たされない」からっていうのが答えです。
無理やりに満たされた風を演じて自分を騙すことはできるかもしれません。
だけど、将来ふとした時に諦めてしまった自分に後悔してしまうということが一生続くっていうことが簡単に想像できちゃうんです。
成長意欲の高い人にとって「些細なことに幸せを感じよう」は「現状に満足しよう」って言葉と同等です。
いろんな便利なもの幸せなことはあるけど、現状には満足できない。つまりこれって、僕らが強欲であることの証明なんですね。
そして、強欲な僕らは一生満たされないのかもしれません。
些細なことに幸せを見出すことができても後悔することが目に見えてるし、諦めずに成長し続けても目的を達成するまでは常に不安に襲われているからです。
さらにいうと、たとえ目的に達成したとしても新たな目的が見つかったりして結局新たな乖離が生まれて不安からは解放されないわけです。
成長意欲が低いことは責められるべきことではない
些細な幸せで満たされる人って、世の中には向上心がないとかっていう風に見られがちだと思うんですけど、そういうどこまでの幸せで満たされるかって人それぞれなわけだから、向上心が低いってことは向上心の高い人に残念に思われるべきことではないと思うんですよね。
将来の夢が専業主婦な人がいたとして、本人がそれで満たされるのなら、他人が口を挟む権利は一切ないはずで、さらに言えばそこに高低を感じること自体が間違いだと思うんです。
満たされないけれど、それでいい
強欲な僕らは確かに一生満たされないかもしれない。
だけど、この成長意欲高いままで良いんです。むしろもっと高くありたいものです。
他の人には不幸に見えるかもしれないけど、全然苦痛じゃないし、むしろ楽しさすらあるんです。
それに、この満たされなさを満たされたと騙し騙し生きていくよりは、ちゃんと器をいっぱいにして満たされたいと思います。
これからも強欲で居続けようと思いました。